天母山戒壇説
【顕正会の主張】顕正会は、「広宣流布の暁に戒壇を建立すべき場所は、大石寺から東方四キロにある天母山である。それは宗開両祖以来の伝統教義である」であると主張しています。
この主張の根拠として、第二祖日興上人の御筆と言われる〝大石寺大坊棟札の裏書き〟を挙げている。この裏書には、「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」とあります。
しかし、この棟札自体が後世の贋作であることが判っています。
顕正会の文証
「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、戒壇建立の場所についての定めである。一期弘法付嘱書を合わせ拝すれば、この「最勝の地」が富士山を指していることは言を俟だない。しかし広漠たる富士山麓の中にはいずれの地かといえば、日興上人は南朧の絶景の地「天生原」と特定されている。すなわち大坊棟札に
「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於て、三堂(本門戒壇堂・御靼堂・垂法堂)並びに六万坊を造営すべきものなり」と。
この相伝により日寛上人は
「事の戒壇とは、即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)
と指南されている。「事の戒壇」とは御遺命の戒壇をいう。広宣流布のとき事相(事実の姿・形)に建立されるから「事の戒壇」というのである。
また日応上人は御宝蔵説法本において「富士山の麓に天毋ヶ原と申す曠々たる勝地あり、ここに本門戒壇堂建立あって……」
と仰せられている。戒壇建立の場所についての御歴代の伝承まことに明らかではないか。
(「学会宗門抗争の根本原因」浅井昭衛)
【破折】
1.大坊棟札は後世の贋作
棟札
正應四年巳丑二月十二日
此小本尊ヲ模刻(薄肉彫)シテ薄キ松板二裏二御家流ノ稍豊ナル風ニテ薬研彫ニセルモ文句ハ全ク棟札ノ例ニアラス又表面ノ本尊モ略之本尊式ナルノミニテ又棟札ノ意味ナシ 唯頭ヲ< 二切リテ縁ヲツケタルコトノミ棟札ラシ石田博士モ予卜同意見ナリ 徳川時代ノモノ(日亨上人御筆記)
と日亨上人は徳川時代のものと判定している。
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2.日教・日辰の謬説
天生原戒壇節のはじまりは、大聖人滅後200年ごろ、京都要法寺の僧・左京日教(のちに宗門へ帰依)が『類聚翰集私』で述べたものです。
また、日教師に続いて京都要法寺の僧・日辰が重須著したした『御書抄・報恩抄下』に、
「富士山の西南に当たりて山名は天生山と号す此の上に於本門寺の本堂御影堂を建立し岩本坂に於て二王門を立て六万坊を建立し玉ふべき時彼山於戒壇院を建立して……」
とはじめて天生山という記述がでてきました。
つまり、京都要法寺系の僧侶が言い始めた説なのです。
●第二十九世・日東上人
「順縁広布の時は富士山天生山に戒壇堂を建立し、六万坊を建て、岩本に二王門を建つ等なり、尤も日辰の如きなり」
3.宗開両祖は富士山に建立
●日蓮大聖人
日蓮一期弘法付属書に「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。」
百六箇抄に「三箇の秘法建立の勝地は富土山本門寺本堂なり 乃至 日興嫡嫡相承の曼荼羅を以て本堂の正本尊と為す可きなり」
●日興上人
富士一跡門徒存知事に「必ず富士山に立てらるべきなり。」
「駿河の国・富士山は広博の地なり一には扶桑国なり二には四神相応の勝地なり」
日興跡条々事に「大石寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領し、修理を加へ勤行を致して広宣流布を待つべきなり。
」
※日興上人は大聖人の御遺命の地を大石ケ原と定められ大石寺を創建。
顕正会が主張するような、広宣流布の時、天母山に移設する計画は宗門にはまったくありません。
4.日寛上人も富士山に建立
●日寛上人
文底秘沈抄に「富士山を以て本山と仰ぐべきこと文理明白なり。」
「富士山に於て戒壇を建立せざらんや。」
「富士山は是れ広宣流布の根源なるが故に。根源とは何ぞ、謂わく、本門戒壇の本尊是れなり、故に本門寺根源と云うなり。」
依義判文抄に「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、応に是れ富士山なるべきなり。
法華取要抄文段に「問う。最勝の地とは何処を指すべきや。答う、応に是れ富士山なるべし。故に富士山に於て之を建立すべきなり。」
●第三十一世・日因上人
「広宣流布の日は、当山をもって多宝富士大日蓮華山本門寺と号す可し」(研究教学書16巻71頁)
●第四十四世・日宣上人
「今は是れ多宝富士大日蓮華山大石寺、広宣流布の時には本門寺と号す」(世界之日蓮)