南無日蓮大聖人
南無日蓮大聖人
平成23年11月15日発行
P202-203
次に場所については
「霊山浄土に似たらん最勝の地」と仰せられている。ここには地名が略されているが、「一期弘法付嘱書」には「富士山に」と特定されている。さらに日興上人は富士山の中には前額の最勝の地「天生ケ原」を、その地と定められている。
ゆえに日興聖人が書写された大石寺の「大坊棟札本尊」の裏書には
「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に於いて、三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」
と記されている。「三堂」とは、「本門戒壇堂」と日蓮大聖人の「御影堂」ならびに「垂迹堂」である。
顕正会の誤り〝大坊棟札〟は後世の贋作
この大坊棟札とは、第二祖日興上人の御筆といわれるもので、その裏書きの文に「天母原に三堂並びに六万坊を造営すべきものなり」とあることから、天母山戒壇の論拠にされているわけだが、この裏書きは、じつは日興上人の御筆などではなく、後世の贋作であることが、すでに明らかになっているのである。
後世の贋作であるとの証拠に、棟札というからには大石寺大坊の上棟の時に入れるはずなのに、裏書きの日付は、大坊の完成から半年も後になっている。さらに、その文字の書体も、棟札の日付より七年後に生誕した尊円法親王の書風が、さらに江戸時代になって変形した、いわゆる“御家流”と呼ばれるものである。その上、日興上人の御署名が、正しくは日興と書かれるべきところを日と間違えており、その後に必ず加えられるべき花押(御判)すらない。
(『誰にでもわかる顕正会の誤り』暁鐘編集室)