国立戒壇論とは
「国立戒壇」とは顕正会の浅井昭衛会長が「憲法を改正して、国立の戒壇(本尊の安置場所)を建てなければならない」「目的達成のためなら流血も辞さない!」として会員を扇動するものです。顕正会(当時:妙信講)が日蓮正宗の信徒団体から解散命令(破門)処分を受ける大きな原因として、「大聖人は国立戒壇を御遺命されている」とする、御本意を解らぬ浅識、あるいは慢心から起こる信仰によるものである。
浅井会長の主張
事実は、大聖人は国立という定義はされていない。
明治以前の猊下も国立戒壇と御指南されていない。
大聖人の教義ではない国立戒壇
「国立戒壇」の語は「御書」にはなく、明治時代に国柱会の田中智学が初めて言い出したものです。それが当時の時代背景とマッチして、次第に国立戒壇の語が広く用いられるようになったので、日蓮正宗においても、この語を自然に使用するようになったのです。国立とは「国が経費を出して設立・経営していること(広辞苑)」です。
宗門の猊下におかれては、戦前からこの語を使用してきたが、このような意味合いで用いてきたのではありません。なぜなら、仮に国立で戒壇を建立すれば、そこに安置する本門戒壇の大御本尊を国家の手に委ねてしまうことになり、もし将来、国家の方針が変わったら、大御本尊を御護りすることができなくなってしまいます。 大御本尊護持という根本の信心に立てば、国立戒壇は絶対にあってはならないことなのです。
もともと国立戒壇は日蓮大聖人の教義ではなく、明治以前の日蓮正宗にはその言葉すら存在しなかったのですから、日達上人が「今後は、国立戒壇の語を用いない」と決定されたことは全く問題のないことです。
顕正会に「国立戒壇」ができない絶対的理由
- 顕正会は50年余り主張し続けているが、1mmも具現化していない絵空事。
- これまで数々の会員が逮捕されてきました。
- このような集団に天皇・政権は【勅宣・御教書】を発行しない。
- 戒壇の大御本尊と無関係の顕正会は戒壇建立を100%できない。
- 何より浅井昭衛死後、顕正会は崩壊する。
顕正会の「国立戒壇論」の矛盾!!
【浅井会長がいう「国立戒壇」の定義】
ただしこの「国立戒壇」とは、国費によって立てる戒壇の意ではない。広宣流布の暁の事の戒壇は、全国民の燃えるような赤誠の供養によるべきである。また国立戒壇とは、国家権力による強制をも意味しない。(中略)
では、国立戒壇の「国立」たるゆえんはどこにあるのかといえば、実に「勅宣・御教書」すなわち国家意志の表明にある。かくて始めて国家・国土の成仏が叶うのである。(中略)
また「民衆立」であるが、もしこの「民衆立」が国民の総意による建立を意味するのならば、国民の総意は即国家意志であるから、往いては国立戒壇と同意となる。【資料➡】
(『なぜ学会員は功徳を失ったか』浅井昭衛)
〝国立〟とは、「国が経費を出して設立・経営していること」。
それを受けないとしている浅井の解釈からしても、
顕正会の主張は、実際は民衆立であり、
〝国立戒壇ではない!!〟
実は、「国立」の解釈自体は、宗門と変わらない顕正会。
顕正会は国立でもないものを国立と言い張っている間違いに気が付いていないようだ。
ではなぜ、自己矛盾の犯しながら、宗門を批判するのか。
宗門への批判は言い掛かり
整理してみると、「国費、権力に委ねない」ついては、顕正会と宗門では認識に変わりがないことになり、さらに、宗門では「勅宣および御教書」を否定していない。解釈の喰い違いが大きくあるわけでもないのに、なぜ宗門を「御遺命破壊」と批判するのか。この言い掛かりは、なぜ起きているのだろうか。
●猊下非難の証拠として
猊下が「国立戒壇」を取り下げたことで、浅井は「誤りを犯した」と格好の批判材料ができたと考えた。その証拠となる言葉が「国立戒壇」である。
元来、目障りな人間に容赦ない性質なのであろうか、浅井親子は所属の末寺を転々としていた経歴がある。自分の上に存在する猊下は気にくわなかったと考えられる。
浅井は、実際には「国立でない戒壇」を主張するという自己矛盾に陥っておきながら、とにかく宗門批判する材料があれば利用するだけなのであろう。
浅井会長指導
「近き将来、日目上人御出現のその日まで、大石寺を清らかに御守護申し上げることこそ、守護付属を受けた日蓮正宗信徒の責務であります。」
(平成2年7月8日 第25回総会 横浜アリーナ)