顕正会のニセ本尊を検証
顕正会には、本部のほか各地の会館、自宅拠点に日蓮正宗の御本尊が安置されているのだが、そのほとんどが「浅井会長が秘密裏に作った?」 ニセ本尊である。浅井親子が正宗信徒時代、所属寺院であった妙縁寺・松本日仁住職から正確なところ、何体の御本尊を下付されたのかがはっきりしない。
まず、浅井会長発言による御本尊下付の変遷を確認しておくと下記の通りである。
昭和60年2月23日 浅井会長発言
「顕正会で護持している御本尊は、すべて日蓮正宗妙縁寺住職・松本日仁尊能師より授与され、私が護持申し上げてきたものである。(中略)妙信講に解散処分が下された時、私は松本尊能師に将来の広布推進のため、御本尊を大量に御下げ渡し下さるよう願い出た。松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されていた 大幅の常住御本尊七幅と、日寛上人書写の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。
この七幅の常住御本尊とは、
・二十八代日詳上人
・五十四代日胤上人
・五十五代日布上人
・五十六代日応上人
・六十代日開上人
・六十四代日昇上人
等の歴代上人御書写の御本尊であり、 このうちの日布上人書写の御本尊が高知会館に御安置されたのである。(顕正新聞 昭和60年3月15日号)
平成5年6月15日 浅井会長発言
「尊能化は、『妙信講が広宣流布の御奉公をするのに、御本尊がなければ困るでしょう』とおっしゃって、日寛上人の御形木御本尊を大量に、私に託して下さった。 実は昭和四十一年以降、宗門では末寺で授与する御本尊を、日達上人の御本尊に替えたが、それ以前の三十年代には、どの末寺でも日寛上人の御形木御本尊を授与していたのです。 松本尊能師はその日寛上人の御本尊を大量に蔵しておられ、それを私に託して下さったのであります。 そのほか、本部会館安置の御本尊を含めて、歴代上人の大幅の常住御本尊七幅も、お渡し下さった。」 (顕正新聞平成5年6月25日号)
平成11年4月12日 浅井会長発言
「ここに、松本尊能化は、妙縁寺に所蔵するところの 歴代上人の御直筆御本尊七幅、 それから日寛上人の御形木御本尊、 並びに日布上人の御形木御本尊を多数 用意して下さったのであります。(中略) 私は、この異常事態の宗門の中で、ひとり顕正会だけが、あの清らかな日寛上人・日布上人の御本尊様を拝めるということ、こんな有難いことはないと思っております。」 (顕正新聞 平成11年4月25日号)※突如、これまで無かった「日布上人の御形木御本尊」が出る!
御本尊返還を命じていた松本師
浅井昭衛理事長が妙縁寺からの御本尊下付の経緯告白
-------引用--------実は九月二十八日に内容証明が一通まいりました。何事ならんと見れば妙縁寺の松本御能師の名前で差し出されている。
「妙信講の本部会館に御安置の御本尊をすぐ返還せよ」とある。
まさか、あの松本御能師がそんなバカなことを仰せになるはずはないのです。いまになって見れば、すべての実相がわかってきた。御能師にすべてお聞きしました。
九月二十八日に御能師は突然本山へよび出されたそうです。そしていきなり、「妙信講の御本尊を取りかえすように」と猊下からいわれた。そこで御能師は「自分には信義上とてもそんなことは出来ない、むしろ自分の首を切ってくれ」と言上したそうです。そしたら猊下は「すぐ取り上げるのではない。ケジメをつけるのだ。松本さんも老齢だし、将来わからなくなると困るから貸与してある記録として内容証明を残しておくのだ」といわれた。
そこで御能師も安心して、すでに宗務院で用意してあった案文を写し署名されたのです。
その後、十月十一日に御能師はまた本山に登られた。その時猊下は、「もっと強気になって返還請求しなければだめだ。さもないと、妙縁寺の責任役員会を開かねばならぬようになるかも知れない」といわれた。(中略)
そこで昨年十二月二十二日の御入仏式の時、すでに松本御能師と堅い約束の文書を取り交しておりました。松本御能師からは「十万達成して妙信講授与の御本尊感得の暁まで、本部会館安置の本尊として確かに貸与する」と覚え書きを下された。
(富士 昭和49年12月号 浅井昭衛理事長)
「返還せよ!」と松本師から言われていたのに、
これだけの御本尊を下付されるわけがない!
返還しなかったケースの場合
日達猊下は再三に渡って、松本師に御本尊返還を要求された。
仮に、返還をしていなくとも、信徒除名処分の前後一か月だけでも500世帯の折伏をしているので、浅井会長がいう数百の御本尊はすべて下付しつくしている。(年表参照➡)
顕正会のニセ本尊の検証
違いの特徴は、
・50年ほども経つのにま新しい
・御本尊が拡大されている
などが挙げられる。