試練と忍従の歴史


試練と忍従の歴史
(富士 昭和61年8月号)


P16
国立戒壇をめざす一粒の種
講演・青年部会(34年1 月18 日)
大聖人様が最後の御理想として説かれたのが王仏冥合・国立戒壇ということです。… … 王法と仏法が冥合した時に平和が得られる、この事は世間の人達にはわからない。しかしわかる時が必ず来る。… …大聖人が御入滅になる時に「時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是れなり」と仰せられたのは、この深意を理解するのに何百年かの歳月を要すると思し召されたからだと思う。… …ここに講中として認可があり、妙信講は立ち上りました。妙信講は小なりといえども総ての素質を具えた一粒の種として誕生したのです。(顕正新聞34・1・5日号)


P26
三千達成の奉告法要に 平沢会長を招く
講演・三千達成奉告法要(38年10 月20日)
ここに三千世帯を代表した方々が集って誠に厳しゅくな式を迎え、喜びでいっぱいであります。
六年間妙信講を激励して下さった松本日仁御住職も本当にお喜び下さった。また公私共に多忙な全国法華講連合会長平沢益吉先生も、三千達成の意義を理解下さって御出席下さいました。
三千はかって六年前に講頭先生が日淳上人にお誓いになった宿願、全講員が信心のまごころを込めて築いた法城です。悪戦苦闘の中に、難信難解の御本尊様を流布して参ったのであります。……
日達上人には前々から講頭先生の熱願に応えられ、三千達成の暁には出てやろうと仰せでございま
した。この御慈悲が妙信講に隅々まで行き渡り、勇気百万倍して大進軍が始まったのであります。ここに達成して先生は先ず猊下に御報告申し上げるとおつしゃって登山されました。
本日皆さんに報告をいたしますが、もったいない事であります。三千達成の報告に全講員の登山をお許し下さり、大講堂においておことばを賜るとの仰せを正式に宗務院を通じて頂きました。
私共のたった三千のつたない御奉公ではございますが、晴れて戒壇の大御本尊にお目にかかれる、御法主上人におことばを賜る。日蓮正宗信徒として、喜びこれにまさるものはない。妙信講一門の名誉これに勝るものはございません。
いよいよここに猊下の御心を心として、私共は益々折伏の于をゆるめずに、そして宗門の大局に立って御奉公の誠を尽して行く新たなる段階であります。……
 本日連合会長の平沢先生も来て下さった。平沢先生は猊下の命により、何とか法華講を本当に立上がらせようと苦心しておられる。……
 ここに妙信講も三千の法城完成の上は、新しく洋々たる前途を迎えて、法華講の方々とも手を取り猊下の御もとに馳せ参じ、全宗門の中において、その一翼として目覚ましき働きを示して行く時です。そして他日猊下の御目より見て、最も勇敢に、最も団結し、最も力強く戦った講中こそ妙信講であったといわれる日まで、講頭先生の下一糸乱れざる戦いを本日より逞しく開始しようではありませんか。(顕正新聞 38・10・25日号)


P30
猊下への「歎願書」
今般大客殿落慶々祝の登山に付き、恐れ乍ら法主上人猊下に歎願し奉ります。
宗門の大慶事たる大客殿落慶を御祝い申し上げ登山をさせて頂く事は、私共正宗信徒として前々より鶴首待望する所でございました。
思えば終戦時の大変以来、宗徒の責務として一日として祈願せぬ日の無かった事は、往時に勝る大客殿の建立でありました。然るにたまたま学会の御供養により建立されるを聞き、非力を顧みず小講も御供養の一分をと、直接猊下に御願い申し上げ、その御許しを賜ったのが三年前の八月でございました。
以来全講員は感奮精進し、或る者は日々の生計を切りつめ貯蓄し、ただ信心の真心を以て貧者の一燈を捧げさせて頂きました。
そして本年四月愈々落慶との報を聞き、また連合会からは、「登山は八月になるが、妙信講には千七百名の登山が許された」と四月一日に通知があり、直ちに名簿を添えて申込みましたところ、間もなく猊下御染筆の色紙も千七百枚賜りました。ここに全講員はその色紙を床に掛け、只八月の総登山を渇仰して今に至りました。
 然るにこのたび、連合会より突如として登山の拒絶が申し渡されました。その理由は「妙信講の連合会に対する協力の度合いが足りぬ」との事であります。余りの事に、只呆然とするのみでありました。
私共の思いには、御開扉を許す許さぬは、昔より血脈の御一人の為されるところにして、一般僧侶すら囗にする所ではないと。況や尊き戒壇の大御本尊への参詣を、統制の道具に利用し、無条件に従わなければその道を訟ぐなどと云う連合会の処置は、まことに非理の甚しいものと思わざるを得ません。
 当講に仏法上の違背があるならば兎も角、真剣に弘通に精進する者が御開扉が許されないなどは有り得べからざることでありますれば、これは何かの誤解に相違ないと、早速連合会に連絡を致しましたが一向に要を得ず、途方に暮れている所、事態を憂慮された松本住職は、自ら小生等を伴って平沢会長宅に趣き条理を尽して当講の立場を説明して下さいました。
 結果、平沢会長は一応了承の風でありましたが、事務上の都合もあるとて担当の柳沢氏と相談、結論は追って理事会に謝ってからとの事でありました。そして七月三十日、理事会の決議であるとして、登山拒否を書面を以て通告して参ったのであります。

 今までのいきさつより推察するに、この連合会の仕打ちは、今回の大客殿落慶登山を機に、妙信講を無条件に従属せしめようとの底意以外には考えられません。
拒絶理由である「非協力」との事も、当方よりすれば協力したくとも為し難きがあります。そもそも連合会の妙信講に対する態度は、三十七年九月の最初の出会いからしてまことに威圧的で、あたかも悪事を為した者に接するごとき態度を以て、従属を迫るというものでありました。もしこれに無条件に従うならば、妙信講の自主的活動は全く為し得ぬところとなります。連合会はこれを知りながら、御登山と末寺における御本尊下附を条件として迫ってきたのが今回の処置であります。
 事ここに及んで、私共にては解決の方途もございません。よって枝葉のいきさつを尊き御耳に入れ煩わし奉るを恐れながらも、敢えて御法主上人猊下に歎願申し上げる次第でございます。
若し連合会の妨害で、渇仰せる御登山が不可能となったならば、純信の講員の悲嘆慷慨は想像に絶するものがございます。今はただ御法主上人の御慈悲により、御開扉の御許しを給わり、この上とも当講をして広布の御奉公を為さしめられるべく、只管歎願申し上げる次第でございます。
昭和三十九年八月十二日
 妙信講講頭 浅井甚兵衛
奉 法主上人猊下


P35
猊下へ再度の「嘆願書」
 御法主上人には弥々御健勝に亘らせ給う事、心よりお慶び申し上げます。
昨夏八月の登山に際しては格別の御慈慮を賜わりながら、その後の無音お詫びの次第もございません。
 ただ連合会との関係の円満解決がつき次第御報告をと念じつつ、心ならずも今日に至ったものでございます。
 その後の経過の概要を申し上げれば、登山後妙縁寺住職の再三の計らいにより、猊下の仰せを体して連合会との話し合いがもたれました。
 第一回は九月十八日、首脳幹部だけで行われました。当方としては協力し得る態勢を懇望して理事三名の選出と行事の事前連絡を申し出ました。猊下よりの仰せを受けてか、雰囲気は協調的でありましたが、やがて衆議に附すべしとて会長が提案し、多勢の理事会に妙信講の処理がかけられました。事情を知らぬ理事等は総てを会長に一任するとの事でした。
 その結果、結論として会長の云われるには、「自分は今更妙信講を感情的にも認めたくない、又妙信講の存在は宗制宗規の上からも前々から疑義があるから、宗務院に公式文書で問い合わせて、その回答を待って自分としての結論を出す」とのことでありました。
やがて京務院の回答文書が到着するや、全理事を召集して九月二十四日宣言がありました。
「妙信講は妙縁寺所属であると回答がなっているから、妙縁寺法華講の一部である。既に妙縁寺法華講からは三名の理事が出ているから、あくまでその中の信徒として連合会は扱う」との事でありました。「しかしながら慈悲で二名までの理事は認めてやる」と恩に着せながら、「今後いかなる命令にも絶対に服従せよ」と迫り、大衆討議に附しました。
 当方としては妙縁寺の所属である事はもとより承知であります。ただ組織行動単位として、四千世帯の講中の立場を認めてほしいのであります。現実に講中の指導に依り折伏に挺身し、修行しつつある実相を見ようともせず、寺院単位だからとして、事実上の団結の単位であり信仰育成の原動力である講中の権威を無視せんとするならば、到底妙信講と連合会は相容れぬ所となります。
これらの経緯より、事の本質を考えますのに、従来の法華講には妙信講の如き存在は殆んどなく、皆寺院の檀家的存在であります。故にそれらの人々には組織活動に対する真の理解が出来難いのと、またひとたび連合会の組織をつくって幹部の座を占むるや、有力講中の存在を嫉視するようになり、大同団結の美名のもとに無力化を計らんとする底意があるように思えます。
 故に松本御住職より猊下の仰せが伝えられ、よろしく円満解決をするようにとの計らいも、或いは為にする質問状より得た宗務院文書に事をよせ、或いは事情を知らぬ多数の理事に計って綴糾せしめ、衆議に名を仮りてこれを決裂に至らしめたのであります。
 然のみならず、十一月二十八日には末寺に於ける御本尊下附の用紙(先般全国的に統匸まで全部返却せよと迫ってまいりました。先には統制に服さざる者には御開扉を許さぬとの暴挙を為し、今また末寺に於ける御本尊下附にまで圧力を加え、これを組織統制の具としているのであります。
 以来、妙信講は総本山の御会式に参詣も叶わず、正月登山も出来ずにおります。およそ御開扉を断絶される事は、正宗信徒として「死ね」と云うことであります。もしその特権を連合会が許されたりとして乱用すれば、講中として信仰の命脈をもつ事は絶対に不可能となります。
 されば連合会の統制に服せんか、連合会は既にその名が示す在り方を逸脱して、信仰指導の統合体を目指しつつあります。
 それを喜び、それを願う寺院檀徒がもしあるならば、それも結構な事ではありましょう。しかしながら妙信講より見れば、縁も薄く、又信仰の確信もなき指導者を長として統合される事は、堪え難きところであります。
 真の組織は、指導者の止み難き信心の力に依り、自然と小より大を為すものであると思われます。自らの内より発する信念によらず、ただ時流に乗って無理無体の統合をせんとする連合会の行き方は、既に内部において様々の矛盾と危険を現わしつつあります。
 私共の存念と致しましては、連合会はあくまでその名の示す如く、法華講の横の連絡機関で、毫も統合に手を出すべきものではないと存じます。猊下の意を体する全宗門的な法華講の連絡調整の窓口であると思っております。
現在の連合会が猊下の御意を曲解・逸脱し、〝単一統合体なり〟とし、命令に随わざる者には見せしめに御開扉を拒否し、御本尊下附用紙を取り上げる如きは、あたかも戦時中の悪統制の再現を思わしめるものがあります。
 連合会がこのような統合体への路線をあゆむ以上、講中活動は絶体絶命の窮地に追いこまれ、円満解決はとうてい望むべくもありません。事ここに至って、松本住職も途方にくれ、共に長大息の外はございませんでした。
 幸いにも現在講員は一人として此の間の事情を知る者なく、悉く純信に折伏に励んでおります。然しながら理不尽なる連合会の権力乱用により、一途に信心しながら尚年一回の登山も叶わぬと知った時の四千講員の悲憤慷慨を思う時前途暗澹、胸に釘を打れる思いであります。
 何卒かかる事情を御賢察給わり、連合会が御開扉の添書を拒絶せざるよう申し下し給うか、或いは末寺住職の添書のみにて御開扉が頂けますよう、出格憐愍の御処置を給わらん事を拝跪歎願申し上げる次第でございます。
 一講中の小事を尊き御耳に入れ奉る事、恐懼する所でございます。
三月八日
 妙信講講頭 浅井甚兵衛
法主上人猊下










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